「自由」と聞いた時に、皆さんは瞬間的に何を思いますか?
「自由になりたい…」
「自由に生きたい…」
「自由を手に入れたい…」
表現が違うだけで全て同じ意味なんですけど…。
きっと、自由が欲しいというニュアンスを思う人が多いのではないでしょうか。
私は自由だ!って思う人の方が、きっとこの世界は少ないじゃないかと思っています。
僕自身もその一人だったから。。。
でも、自由ってそもそも手に入れるものなのでしょうか?
結論から言えば、自由は手に入れるものではなくて、自由は受け入れるものだと思います。
今回は人生自由化のすすめというテーマで書いていきます。
自由という言葉
「自らを由しとする。」
自由の言葉を噛み砕くとこういう読み方になります。
ここですでにピンとこられる方もいるかもしれませんが、そもそも自由かどうかは全て自分自身次第であることを表しています。
元々、自由という言葉は仏教から来たもの。
そして、自由が英語のfreedom的な意味合いとして用いられたのも明治時代になってからという。
つまり、縄文から続く日本人としての根本的な思想の中には、そもそも自由という言葉の概念がなかったのでは!?と思ってしまいます。
現代もっとも多用されているこの自由という言葉というか概念。
まさか、外国から輸入されたもので、言葉としての歴史は150年ほどと浅い…。
なんだってぇぇぇぇぇ!?というちょっと衝撃。
でも、元々この日本に「自由」という言葉がなかったのは、わかるような気もします。
その理由を含めて、次は自由の対義語について見ていきましょう。
自由の対義語
自由の対義語はこれらの三つ。
・自由 ↔︎ 専制
・自由 ↔︎ 統制
・自由 ↔︎ 束縛
専制とは権力者が自分が思うままに意思決定して行動に起こすこと。
いわゆる独裁みたいなもの。
統制とはバラバラなものを一つにまとめること。
あるいは国や組織がある方針に沿って制限したり指導したりすること。
束縛とは動きや働きの自由に制限をかけること。
調べていて思ったのが、対義語には国や組織、そして権力者のような言葉が出ていまして、なるほど納得。
この社会に生きるということは、そもそも自由の対義語の世界なんだなぁって。
だからこそ、自分自身をも束縛してしまいやすくなるのではないかと思います、
そりゃ自由が欲しいとか思っちゃいますよね。。。
でも、先ほどお話ししましたが「自由」という言葉はそもそも輸入ブツ。
そして、本来は仏教的思想から生まれた言葉。
いや、これって仏教特有というより宗教全般に共通しているかもしれません。
そもそも宗教とは神様がいて、その神様の「存在」や「教え」を信仰するものです。
もちろ宗派によって違いはあるかもしれませんが、自分の行動を含めた様々な選択は「教え」によって影響を受けるもの。
影響を受けるというのはある意味で制限と解釈することもできます。
この場合の制限とは、決して悪いものではありません。
信仰している人たちにとっては、とても意味のあること。
ただ、特別何かに信仰を抱いていない人からすれば、制限とはまさに自由ではないという風に捉えることもできます。
特に、日本は無宗教とも呼ばれますが、”誰か”の”教え”に沿って行動するという文化がそもそも根付いていないのではないでしょうか。
もちろん、自由に対する言葉において、宗教的な意味合いだけではないとは思いますが、わかりやすい例を挙げると歴史的背景があるんじゃないかなぁと。
一方で、現在感じている不自由さって、宗教ではなくて、どちらかというとこの社会というか生活そのもの。
それはやはり、明治時代になってから、イギリスやアメリカから輸入された「仕事」や「労働」という概念がもたらしたものなんじゃないかなとは思います。
これについてはこちらの記事で詳しく書いています!
自由は受け入れるもの
さて、ここからこの記事の本題に入っていきたいと思います。
冒頭に、自由は手に入れるものではなくて、受け入れるものと書きました。
手に入れるだと、それは何か獲得するというか成し得ないといけないもの。
受け入れるだと、それは自分自身がどう選択するかというもの。
結局のところ、ほとんどの人の思考の構図はこうなっていると思います。
自由君の足を引っ張っているんじゃないかなぁと。
だからこそ、こういう構図にしてしまえばいいのです。
自由になることを受け入れるだけ。
まず初めに自由君と握手を始めて仲良くするところが第一のスタートだと思います。
では、なぜ現代人の多くは受け入れられないのかについて考察してみようと思います。
解放への恐怖
なぜ、自由になることを受け入れられないのか。
それは…
「自由になるということは解放されることだから」
と思っています。
ただ、ここでいう解放とは何を指しているのか。
それについて少し深掘りしていきます。
まず思い浮かぶものとして、「学校、仕事、家事からの解放」があると思います。
いずれも自分自身や時間が拘束されるもの。
当然ながらそれが好きなことであれば、全く話が変わってくるのですが…。
僕自身は解放されたいと思っていました。
かといって学校行くのやめたら…とか、仕事を辞めたら…とか、そういうことを考えると、辞めた方の方が将来不安になるんじゃないかなぁ…というジレンマ。
そうやって結局、どっちの方がまだマシかという選択をしてしまいます。
まさに自由がない状況下における「あんしん」探し。
・・・
その上で、例えばサラリーマンだったとして、与えられた仕事から解放されるために自由業を選ぶかと言われると、やはりそこに対してNoだと考えてしまうんじゃないかと。
サラリーマン=保証がある
自由業=保証がない
このイメージがある限り、だったらサラリーマンの方がいいやと思いがちかもしれません。
これもまさに「あんしん」探しですよね。
そしたら、自由になるためには自由業しか道はないのか…と言われると、これは僕自身の考えですが、「決してそうではない」と思っています。
自由業になることが自由の道ではないのです。
そもそも自由なのですから、サラリーマンだろうが自由業だろうがそれこそどちらでもいいというお話。
拍子抜けしてしまうかもしれませんが、本来の自由ってずっとそこにあると思うのですよ。
自分が縛られていると思えば縛られているし、自由であると思えば自由なはず。
生まれてきてから今に至るまで、例え選択を迫られたことがあったとしても、全て最終的には自分自身で選んでいます。
縛られていたとしても、その縛られた道を歩んでいるのも自分の中の自由な意思がそう決めたことになる。
つまり、自由から解放されるというのは、そういった今までの自分自身の選択を含めて「自分としっかり向き合うこと」になるのです。
社会の模範通りな生き方、与えられ続けている人生のレール。。。
そういったあたかも自分の選択ではないように生きていれば、自分を傷つけずに済んでしまいますもんね…。
これはほんと僕がそういった人生を歩んでいました。
本当はそういった選択も全て、自分の自由意志が決めたこと。
やっぱり自分と向き合うのって、怖いことだと思うのです。
だからこそ、解放されることに対してどうしても恐怖感が湧いてくるのかなぁと思っています。
人生自由化のすすめ
自由とは自分自身と向き合い、自分の全てを受け入れること。
どんな選択肢も最終的には自分が選んで決めてきた人生。
だからこれからも、自分自身が自由に選択して生きていく。
それが本来の”ありのまま”だと思っています。
後悔なんてものは存在せず、全ての事象は今を生きる自分にとって最善だったんだと思えれば、本当に人生はイージーモード。
誰のせいでもなければそこに執着することはなく、何が良くて何が悪いみたいな損得で判断することもなく、全てにおいてありがとうと言える気持ちを持てた時、ようやく自由になれる、まさにそれは幸せで倖せ。
だからこそ、全ての人が人生自由化を選べれば、本当にこの地球はもっともっと軽くなるんだろうなと思います。
それでは今回はここまで。
倖せが繋がりますように★彡*iᵕi*★彡
✼Comment✼